タイトルは「歴史散歩」ですが、歴史に限らずヨーロッパの文化や言語、そして日常生活で「いいな!」と感じたことを発信します。

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阿弖流為(アテルイ)の感想
「ヨーロッパ」と銘打っていますが、
日本の古代史に寄り道をすることもあります。

現在、宝塚大劇場で上映中なのが花組「邪馬台国の風」です。
今月の10日で大劇場千秋楽となるので、
阪急沿線の駅では次の演目のポスターに代わっています。
実は先月、観てきました(^-^)/
細かなことを言ったら始まりませんが、楽しませていただきました。

個人的な感想としては
このお芝居の後のショー『Sante 最高級ワインをあなたに』は本当に素晴らしかった∠( ^ o ^ ┐)┐ ヨォ…

邪馬台国の風

さて、次は梅田芸術劇場のチケットを取れなかった
星組の実力派2番手・礼真琴さんによる『阿弖流為ATERUI』のポスター写真です。

阿弖流為ポスター
私は高橋克彦『火怨 北の耀星アテルイ』(講談社)を読んでいるのですが、
改めて感じたのは、教科書の歴史記述は中央政府の歴史であることです。

アテルイは桓武天皇の治世に、征夷大将軍・坂上田村麻呂に抵抗した
蝦夷(えみし)のリーダーです。
最近の日本史教科書(山川出版ですが)にも「阿弖流為」の名前が登場して、嬉しく思っています。

陸奥の黄金を狙い、朝廷側は東北地方に進出するのですが、
蝦夷の人々に対し、人としての誇りを傷つけるような振る舞い。
同じ蝦夷でも、アテルイのように前線(胆沢)の住人と
より北方の住人との戦に対する認識の違いもあるのも現代に通じるところでしょう。

最終的に、アテルイは坂上田村麻呂に投降します。
蝦夷と共に朝廷軍の兵士が無駄死にをすることに心を痛めたためです。
もちろん、投降後に都に連行され、残虐な処刑をされるわけです。
坂上田村麻呂のアテルイを人として尊重する態度には、
同じ武者としての共感があったのだと印象付けられました。

ということで(?)、
もう1枚、礼真琴さんのアテルイの写真を加えておきます。

写真はいずれも「宝塚歌劇団」のホームページからです。
写真を小さくする方法が分からない・・・

阿弖流為まこちゃんのみ
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お姫様の結婚がもたらすもの
こんにちは。今回は中世の旅人たちについてご紹介します。
中世社会は閉鎖的で、一部を除く人々は
自分の住む地域を離れることなく暮らしている静的な社会だと思われがちです。
ところが、実際はそうでもなさそうです。

特に教会間のネットワークは強力でした。
例えば、多くの聖職者が巡礼やその他の目的でローマを訪れていました。
また世俗の王侯は教皇庁(ローマあるいはアヴィニョン)との外交関係を維持するために、
使節を派遣していました。
修道士にしても修道院に閉じこもってお祈りばかりしていたのでなく、
修道会による集会に参加するために、
または説教のために各地を移動していました。
教会も、十字軍や巡礼のような宗教目的で、世俗の人々が旅するのを奨励していました。

世俗世界に暮らす人々も様々な理由で旅をしていました。
旅人の多くは男性ですが、女性も旅をしていました。
たとえば、王家や貴族階級の女性は結婚するために移動していました。
中世の王国貴族の結婚で、女性は自らの従者を多数引き連れ、
嫁ぎ先に自らのハウスホールドを形成していました。
ハウスホールドは日本語に訳しにくいのですが、従者集団とお考え下さい。
これらハウスホールドのメンバー多くが、故郷の家との連絡を保ち続けていました。
こうした関係から、文化的・物質的な交流も盛んだったと考えられます。

たとえば、イングランド王エドワード1世の王妃エリナー・オヴ・カスティルは
イングランドで形成したハウスホールドにカスティリヤ人(スペイン人)を連れてきており、
そのうちの何人かは、エドワード2世の治世になっても宮廷に残っていました。
その中の1人、ロドリゴ・オヴ・イスパニアが1312年にイングランドで没した時、
エドワード2世はロドリゴの寡婦がスペインに持つ彼女の領地で過ごすことができるよう、
カスティリャ王に依頼しています。
この夫妻はイングランドに住んでいましたが、スペインにも地盤を持っていたのです。

故郷と接触を持っていた王家の女性の例として、
ポルトガルのジョアン1世と結婚したフィリパ・オヴ・ランカスターや、
カスティリヤのエンリケ3世と結婚したカタリナ・オヴ・ランカスター姉妹がいます。
共にイギリス王エドワード3世の孫で、たびたびイギリスの帰っていたようです。

こんなことを知ると、交通機関が発達していなかった時代だけに、
当時の人々の行動力に驚かされてしまいます。

雑感
最近はすっかりご無沙汰しておりますが、
ブログを始めて何年か経ちました。

その間にいろいろな人たちの訪問があって、
大部分は楽しく前向きな方々で、本当に勉強になりました(^-^)/

しかし、中にはとんでもない人がいます。
私は持病があり、月に1度ほど病院通いをしています。
私が通っている病院は治療だけでなく、患者の啓発も熱心です。
専門医の講演会などもあります。

今は削除したのですが、ある医師の講演会の事をブログ上に書いたら、
「教えてください」というメッセージが届きました。
困っていらっしゃると思い、私なりに誠心誠意対応したら、
途中から先方の態度がどうも変な方向に・・・

私が医師で、後援会をする医師の側に立って
その人をイジメているなど、身に覚えのない事までメッセージで送られました。
もちろん、私は医師ではありません。

この人は、講演をする医師に個人的な怨みを持っていて、
医師が処方した薬で体調を壊したということです。
しかし、医師にしても重大な副作用がある薬については説明をするはずだし、
この人については逆恨みではないかという印象を受けました。

その後、この人は病院でもかなりの有名人と知りました。
検査や治療の予約を自ら入れつつ、すっぽかす、
その医師のホームページ上には嫌がらせの書き込みをする、
私もその余波を受けたわけであります。

ネット上にはいろいろな人がいますが、
相手を見極めるのも大切だと思います。
ネットを利用すれば、一般人も容易に加害者になることを肝に銘じておきましょう。

ハンザについて
長い事、更新をさぼってしまいました(=゚ω゚)ノ

 皆さん、こんにちは。先ずは宣伝ですが、
私が共訳者として参加した書籍フィリップ・ドランジェ著『ハンザ 12-17世紀』が
昨年12月に「みすず書房」から刊行されました。
興味のある方は、以下のページをご参照ください。
http://www.msz.co.jp/book/detail/08511.html
 
 今回は「ハンザ」について書くことにしましょう。
中学や高校の教科書で「ハンザ同盟」という用語を
お知りになった方も多いと思います。
中世北ドイツの商業都市の同盟と理解している方々が
大多数であるはずです。
その存続年数は他の都市同盟と比べると群を抜いて長く、
また関係した都市も
スカンディナヴィア、ロシアからフランスやイベリア半島にまで及びます。
翻訳の過程で、都市や地域の名称の訳し方には本当に苦労しました。

 今回は、「ハンザ同盟」ではなく、「ハンザ」という語句の意味と、
なぜ「ハンザ」が結成されたのかに絞ります。

 本来、「ハンザ」という語句は普通名詞で「団体」という意味です。
ドイツの航空会社に「ルフトハンザ」がありますが、
団体という意味から「法人」を示すようになったのでしょう。
しかし、時代と共にいろいろな意味で使用されてきました。
最古の例では、兵士の「部隊」という意味でしたが、
これがのちに商人の「団体」あるいは「組合」を示すようになります。

 「ハンザ」と言えば、教科書に掲載されている「ハンザ同盟」ですが、
その他にも「ハンザ」は存在していました。
「団体」や「組合」という意味を考えれば、これは当然と言えます。
中世世界は、現在では考えられないほど危険に満ちた世界でした。
そこで、各地域の領主たちは自身の領地だけには、
治安を確立しようとしていました。
商人たちが自身の領地で安全に商売ができれば、
通行税その他の収入が期待できます。
そこで、自分の領地内に来る商人団体に、安全通行の特権を与えたと言えます。

 商人団体と書きましたが、
この時代に単独で遠くへと商売に出かけるのは危険すぎます。
したがって、商人たちは組合を結成し、
キャラバンを組んで遠くへと商売に出かけました。
本来は、単独都市の商人がハンザという組合を結成し、
後にいくつかの商業都市の合同ハンザに拡大していったというのが通説になっています。

中世の感染症(梅毒)

 いよいよ寒くなって来て、またインフルエンザが流行する季節になりました。

現代人はインフルエンザが感染症であり、神の罰などと考える人はいません。

「感染」と言う考えは、16世紀頃から医者が経験的に得たものだとされています。

患者の周辺で同じような症状の病人が出たり、

罪を犯したと考えられない乳幼児も同じ病気にかかる例などを見ると、

確かに神の罰だとは思えなくなってきます。


 


今回はルネサンス時代の感染症として「梅毒」を取り上げます。

性病としても知られる梅毒がヨーロッパに伝わったのは、

コロンブスのアメリカ到達以降だとされています。

確かに、15世紀のコロンブス以前にさかのぼるヨーロッパ人の人骨には

梅毒による病変は見つかっていません。

一方で15世紀以前のアメリカ大陸のインディオの骨からは

梅毒病変が見つかっています。

従って、コロンブス以降のアメリカ大陸との接触によって、

梅毒がヨーロッパにもたらされたのは間違いないとされています。

なお、日本には1512年に伝わっていると言うので、

その感染スピードには驚かされます。


 関係する文献を読んでいると、またまた驚くことに、

フランソワ1世(在位15151547年)時代のパリ市民の3分の1

が梅毒に感染していたということです。

この王様は画家ハンス・ホルバインの「死の舞踏」で、

梅毒患者のフランス王として描かれています。


 フランス王と同様にイギリス王も、同じ病に苦しんでいました。

エリザベス1世の父であり、生涯6人の王妃を迎えたヘンリ8世も

感染者であったらしいのです。

最初の妻キャサリン・オヴ・アラゴンの場合、

後のメアリ1世を除いては流産や早産を繰り返しますが、

これは先天性梅毒によると疑われます。

なお、2番目の王妃アン・ブーリンの最初の娘である

エリザベス1世については、梅毒の兆候はないようで、

ここから実はヘンリ8世の子供ではないという説もあります。

3番目の王妃ジェーン・シーモアとの間に生まれた

エドワード6世も16歳で他界していますが、

これも先天性梅毒だと疑われています。


 このように、身分を問わず拡がった梅毒ですが、

当時は有効な治療法もなく、治療したものの

副作用でかえって命を縮めることもありました。

世界史教科書に登場する多くの人々が、

この病気に感染していた疑いがあります。

こんなことから、医学が発達した現代人は幸せなのでしょう。

より多くの人が医学の恩恵にあずかることを願ってやみません。


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